高原書店の軌跡

在庫約100万冊。単独店としては日本最大級を誇る古書店が町田市にある。小田急町田駅北口から徒歩3分。「高原書店」は、4階建てビルの丸ごと1棟が店舗だ。延べ約760平方メートルの売り場には専門書や絶版本のほか、一般書、文庫本などが所狭しと並ぶ。

 
店内に約20万冊。蔵書の「本体」は徳島県にある計約3300平方メートルの二つの倉庫に“備蓄”してある。

 
仕入れた本は原則、捨てない。「時代を映す文化財。後世に残すのが古本屋の使命だ」。社長の高原坦〔ひろし〕(61)の信念は、創業当時の経験に裏打ちされている。

 
高原は徳島の農村出身。地元の大学農学部を出てサラリーマンになったが、「性に合わない」と半年で辞めた。1969(昭和44)年、「社会勉強に」と上京した。

 
最終目標は好きな本にまつわる仕事だった。それまでは、印刷屋や書店、本の月賦販売など2カ月ごとに職を変えた。外国を見ようと、捕鯨船に乗って半年間、南極海へ航海したこともある。

 
74年6月、町田市役所前に10坪足らずの小さな古本屋を開いた。仕入れ資金もノウハウもなく、棚は空きだらけだった。

 
体裁のため、売れそうもない古い理工書も並べた。「これ、ずっと何年も探していたんです」。ある日、客が興奮した様子でその本を抱えた。


ベストセラーの大量出版の時代。古書店といえども、売れない本は製紙原料に回すのが当たり前だった。


本の流通は「ダムのない川」。いっとき市場に流れても、後になっては探しようがない。

 
採算を理由に本を捨てるのは「古本屋のエゴ」と高原は痛感した。

 
「おれがダムになる」。小さな店の片隅で、高原は店の大型化を考えていた。(敬称略)

77(昭和52)年夏、高原書店は町田市内に支店を開いた。社長の高原坦〔ひろし〕(61)は思い切った実験をした。

 
「すべて定価の半額」。一般書を一律で安売りし、高価で希少価値のある古書は本店で高く買い入れ、高く売る。当時としては画期的だった。

 
売り上げは飛躍的に伸び、高原は次々と店舗を増やした。神奈川県内に2支店を開設。85年に町田駅前の商業ビルに約600平方メートルを確保し、本店を移転。94年には新宿に本店をしのぐ大規模店を開いた。「棚が増えるほど、在庫を捨てずに活用できる」。拡大路線の信念は揺るがなかった。


創業当時から高原を物心ともに支えたのが妻の陽子(57)だ。

 
高原と同郷で、74年に結婚した。中学の教員をしていたが、退職後、東京へ連れ出され、「古本屋の奥さん」になった。

 
子どもを背負って店番をしたり、帳簿をつけたり。その傍ら、80年から隔月刊の「書店だより」の発行を始めた。

 
店の拡大で高原が忙しくなる中、「顧客との距離を縮めたい」と思い立った。高原の随筆や読者の投稿、入荷本の目録で構成。読書を巡る熱い議論が紙上をにぎわした。

 
定期購読者は千人を超え、「古書店と読者の雑誌」と改題して通巻134号まで続けた。

 
「新時代の古本屋の旗手に」。夫婦二人三脚で始めた店は従業員50人を数え、年商3億円に届こうとしていた。「事件」はそんなときに起きた。


99年3月、古書量販の大型チェーン店が本店のすぐそばに進出した。

 
売り場面積は3倍。マニュアル化した激安の値付けで、売れ筋の本を売りさばく。高原の店から、客足は遠のいた。

 
さらに暗転する。高原は翌年、重い腎臓病を患う。拡大路線は転換を迫られた。(敬称略)

高原書店の第二倉庫は、徳島県北東部に位置する板野町のレンコン畑が続く県道脇にある。

 
01年3月に開設した。内部は天井が高く薄暗い。約1千平方メートルに50列以上の本棚が整然と並ぶ。それぞれの天板に板を渡した「2階」も本で埋まっている。巨大な図書館のような空間で、従業員が東京から届いた古本を手際よくさばく。

 
約25キロ先の山中には94年に設けた第一倉庫がある。未開封の箱を含めると在庫は推定計200万冊以上。社長の高原坦〔ひろし〕(61)は、倉庫に店の将来をかけた。


多店舗展開に行き詰まった高原は01年6月、小田急町田駅前の繁華街から本店を撤退。新宿などのすべての支店も閉めた。これまで実験的に進めていたインターネット通販を柱に、経営を転換させる決意だった。

 
高原は、置ける本の数、家賃、人件費などを元に、1冊あたりの陳列費用を割り出した。東京では10坪の店でも年間800円かかる。故郷の徳島では10円以下だった。

 
大量に古本を入荷できる東京と、それを安価で保管しネット注文で発送できる徳島の倉庫。二つの拠点を結べば、より多くの本を活用できる。高原は、倉庫の拡充が生命線とみていた。

 
徳島の倉庫を取り仕切るのは営業所長の松永敏雄(61)。高原とは地元の高校の同窓生で、01年に入社した。

 
開設後の第二倉庫は何千個もの段ボール箱で埋まっていた。松永は棚をつくり、1冊ずつデータをパソコンで入力して整理した。倉庫へ送られてくる古書は月に6万冊。分類に関係なく、日付順に棚の枠単位で番号を振って管理する。注文を受けてから発送まで2日。

 
「ここは社長のタイムマシン」。今は売れない本でも別の時代に買い手が待っていると、松永は確信する。(敬称略)

高原書店は02年11月、オンライン書店大手の「アマゾン・ジャパン」と提携、同社のサイトに初出店した。

 
本に買い手が付けばアマゾンが料金を徴収。手数料などを差し引いて代金を高原書店に支払う。

 
アマゾンにとって、高原書店の膨大な在庫は魅力だった。提携前の同年夏、担当者が同書店を勧誘に訪れた。「うちには100万人の登録者がいる。ぜひ出店を」

 
だが、社長の高原坦〔ひろし〕(61)は「手数料が高い」と渋った。

 
「乗らない手はない。駄目だったらやめりゃいい」。高原を熱心に説得したのは、取締役の斉藤頼陽〔よりあき〕(31)だった。


高原書店は97年に自社サイトを開設。プログラムを立ち上げたのが当時大学生だった斉藤だ。

 
劇団で芝居にのめり込んでいたが、公演パンフの広告で世話になった高原の依頼で、サイトの開設・管理のアルバイトを始めた。大学の専攻でプログラミングはお手の物だった。

 
卒業後も古書のデータベース作りや、効率化を追求していた斉藤にとって、アマゾンの誘いは渡りに船だった。

 
背表紙に図書コードがあり、管理が容易な新しい本はアマゾンで大量に売却。従来の古書は自社サイトで扱うことで、経営は安定すると考えた。


高原書店の店舗売り上げは月間約400万円。アマゾンと提携後、ネット通販は月1千万円と大きく比重を増している。月に2万冊弱がネットを通じ、徳島の倉庫から全国へと送られる。

 
斉藤は今年9月、高原書店の非常勤取締役に就いた。演劇に軸足をおきながら、漫画や文庫などを安くまとめ買いできるサイトを構築中だ。

 
「動かない在庫をどう揺さぶるか」。新たな課題を自らに課している。=敬称略

昨年12月に、朝日新聞の多摩版に掲載された記事です。


高原書店社長の高原坦〔ひろし〕氏の考え方や手法には、私もかなり影響を受けています。断片的に本やメディアで取り上げられているのはいくつか読んだことがあるのですが、創業から今日までのまとまった軌跡ははじめて目にしたので、興味深く読みました。


最盛期に比べたら売上は少なくなったといえども、古書組合加盟店では文句なしに上位の実績でしょう。そして何といっても本に対する一種のこだわりを捨てることなく、それを商売として利益が出る仕組みをつくり、時代の変化で今までの手法が通用しなくなった時に、基本理念は堅持しつつも新しい手法に移行することができたところに注目しています。


先日、エーブックさんとお会いした時に、高原社長が昨年末にお亡くなりになったことを知りました。ご冥福をお祈りします。


私は高原書店並みに規模を拡大するつもりはありませんし、またその能力もないと思いますが、家内制手工業ネット古本売りでどこまでできるかは、今後も挑戦していきたいです。